荒川なおみ

Last-modified: Sat, 02 May 2020 07:45:47 JST (1468d)
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荒川なおみは小豆島(あずきとう)の音楽家であり実業家である。

 

経歴など

  • 学生バンド時代
    地元のハイスクールで氷室香美、定岡まさみとバンドを組んでいたもののバンド名はなかった。
  • eight結成時
    バンドを組んでそのまま卒業し、巻岡和美のバンド「ショータイムス」とジョイントバンドを組んだことから現在のイエローツインリボンの前身となるeightを結成する。
  • eightワールドツアー繁華期
    楽曲の大ヒットではないものの順調な売り上げを維持しつつワールドツアーが出来るバンドにまでなる。その際に大きな出来事だったのはedge木村との出会いでこれを機にeightの楽曲にタイトグルーブを取り入れたものが多くなる。
  • イエロープラチナレコード設立時
    音楽プロデュースをするようになり自身の独立レーベルを設立。これを機に実業家への道を進みつつあった。ただ所属していたアーティストは10年ぐらいの活動で音楽業界からは身を引いている。それを補う形になったのがeightのワールドツアー繁華期に社員に立ち上げさせたベンチャー事業だった。これは「荒川方式」と言われており「歌う景気対策」とまで言われている
  • eight活動縮小期
    氷室香美が一時脱退する。定岡まさみ以外のメンバーもこれを機に自身の音楽性を求めてバンドを離れる。
  • プラチナリボン」サービス開始時
    木村が新作である「リファレンステスト2020」のハイレゾ音源を聞かせたことによりサブスクリプション音楽配信「プラチナリボン」を開始する。これについては「あらかわのひとこえ」報道があったが小豆島内のレコード会社数社の持っているテープ音源のデジタル化の費用捻出の施策として決定したものであり荒川はそれを代表で発表しただけに過ぎない。
  • ウォータービート傘下加入とeightからイエローツインリボンへの再編
    プラチナリボン」開始後に木村がウォータービートラーシア重役就任。荒川との交流関係のツテを使い小豆島にウォータービート.comの新工場建設を開始。
    これと同時にイエロープラチナレコードの吸収合併に応じている。社名が「ウォータービートYPR」となり荒川はその社長に就任している。
 
  • eightのサウンド志向
    基本的にはギターポップであるが先述した通り木村との出会いを期にタイトグルーブを取り入れた曲をリリースする。
 
  • 「荒川方式」
    ワールドツアーが多かった時期に小豆島では景気が悪化。多くの大学生が路頭に迷っていた。数ある会社が面接で無理難題を押し付けるなどが横行した中で「小豆島一簡単な面接」と言われている「何が出来ますか?やりたいですか?私たちの方からサポートが出来ますか?」という問いかけだけで面接を済ませ多くのベンチャー事業の立ち上げをさせた。中でも自身のバンドの機材を運ばせるのがことはじめである輸送業は自身のベンチャープロデュースの大ヒット作である。ほかにも自信の音楽活動にかかわる業務をベンチャーとしてやらせているのでイエロープラチナレコードはその持株会社の要素が強かった。この状態を「歌う景気対策」とまで例える識者もいる。
    しかし「歌う景気対策」という言い方は賛否が分かれている。
    ある識者はこれに対して「ただこれは小豆島の政府がくそったれレベルで何もしなかったから彼女の業績が光って見えてるだけであり、運送屋が自分で燃料を買い付けその片手間でガソリンスタンドなんかをやっているのと一緒である。彼女に政府に対してモノを言えとは言わないけれどそんなにすごいこととは思わない。」としている。
    また別に「彼女のベンチャーが小豆島を支えているとは思わない。なぜなら彼女の会社はレコード会社である。レコード会社などはなくても困らないものであるがその会社が輸送業などもやっていて評価が高いのは小豆島がショボいという証拠である。」という識者に至ってはそれを掲載させた出版社が抗議の嵐を受けている。
    ただ否定的意見に対しては木村がばっさり切り捨てているが「このコールアンドレスポンス、ライブより楽しい」と皮肉ってる。
 
  • プラチナリボンサービス開始時にまつわる報道など
    これに関しては先述の「あらかわのひとこえ」報道が有名であるがそれよりも以前に小豆島ではここ数十年来多く売れた楽曲がなく、レコード会社の維持すらも危機的状況でマスターテープの維持すらも出来なくなりつつあった。マスターテープを維持する必要がなくなればレコード会社が消滅しても楽曲の保存は維持されるためデジタル化が検討された。それを一手に引き受けるところになったのがプラチナリボンである。その背景があったものの今日までデジタル化の費用が大きなネックとなっており実施されていなかった。それが荒川がイエロープラチナレコードの社長として行った最後の仕事となった。